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皇居

カテゴリー:仕事現場

2021-10-27

投稿者: osumi

仕事現場の「 皇居 」を紹介します。

皇居 のあるところ

皇居 は、東京都千代田区にあります。

徳川幕府時代では江戸城と呼ばれていました。
元号が明治となるといったん皇居となりましたが、明治21年(1888年)以降は宮城となりました。
その後、昭和23年(1948年)に現在の皇居と呼ばれるようになりました。

ここで「お濠の石垣修復等工事」をしています

地図

皇居 周辺の管轄

皇居 及び皇居東御苑

皇居及び皇居東御苑は、宮内庁の管理区域です。

皇居外苑と北の丸公園

皇居外苑と北の丸公園及びお濠の一部は、皇居外苑管理事務所の管理です。

その他

日比谷公園は、東京都の管理です。

千鳥ヶ淵公園・千鳥ヶ淵緑道・九段坂公園は、千代田区の管理です。

千鳥ケ淵戦没者墓苑は、環境省千鳥ケ淵戦没者墓苑管理事務所の管理です。

みどころ

皇居外苑「楠木正成公」騎馬像

「楠木正成公」騎馬像は、上野公園にある「西郷隆盛像」、靖国神社にある「大村益次郎像」と並び、「東京の三大銅像」と呼ばれています。

「楠木正成公」騎馬像は、銅像本体の高さは4mの迫力のある巨大な像です。
日本初の分解鋳造された銅像としても知られており、空洞が無く全て銅が詰まった銅像です。

「楠木正成公」騎馬像は、楠木正成が隠岐に流されていた後醍醐天皇を兵庫にお迎えした時の勇ましい姿です。
楠木正成は、鎌倉幕府が滅びた玄弘3年(1333年)、後醍醐天皇の味方となって新政府の樹立に貢献したのです。

また、勤王を貫いた正成公の像の顔は、像の正面とは反対側の皇居側を向いており、
像になった今も勤王を貫いています。

江戸城 天守台

江戸城の天守は、将軍の代替わりごとに築き直され、将軍の権力の象徴でありました。

現在残る江戸城の天守台は、「明暦の大火(1657年)」によって寛永の天守が焼失した後、
加賀藩4代藩主・前田綱紀により築かれました。
しかし、戦国の世の象徴であった天守閣は再建されることはなく、現在の石積みの天守台が残るかたちとなりました。

高さ11m・東西約41m・南北約45mの天守台は、江戸城本丸の一番北側に位置しています。

江戸城 百人番所

江戸城では度重なる火災があり、建物のほとんどは焼失してしまいましたが、
この百人番所は、数少ない江戸時代から残る江戸城の建物です。

百人番所は、本丸と二の丸へ通じる要所である「大手三の門」を守る大切な番所でした。

鉄砲百人組と呼ばれた4組(甲賀組、伊賀組、根来組、二十五騎組)が昼夜交代で詰めていました。
各組には同心が100人ずつ配属されていたため、百人番所となったそうです。

百人番所に詰めていた伊賀組を率いていたのは服部半蔵でした。
江戸城にある半蔵門は、この服部半蔵に由来するそうです

桜田門

桜田門は、江戸城の内堀に造られた門の一つです。
本丸に近い内桜田門に対して、正式には外桜田門といいます。

昭和36年(1961年)に国の重要文化財(建造物)に指定されました。

江戸城の築城当初は、小田原街道の起点となっていたため、小田原口と呼ばれていました。

ここ桜田門は、安政7年(1860年)「桜田門外の変」の現場となった場所です。
「桜田門外の変」

安政7年(1860年)、桜田門外で水戸藩浪士らによる彦根藩主で大老・井伊直弼の暗殺事件が起こりました。

安政の大獄による処分がきっかけと言われていますが、それだけではありませんでした。

安政5年(1858年)6月、幕府は朝廷の意向を聞かないまま、日米和親条約に調印しました。

開国に納得のいかない朝廷は、安政5年(1858年)7月、幕府に勅書を下しましたが
返答がないため、同年8月8日に水戸藩へも勅書を下しました。

水戸藩への勅書は、攘夷実行に向けて幕政改革を推進することの要求でした。

水戸藩が朝廷の意向を諸藩に伝えることは、幕府の立場がないため、水戸藩は困惑しました。

水戸藩からも返答がなかったため、幕府は水戸藩に対し、勅書を朝廷に返納することを要求しました。

この要求がきっかけとなり、水戸藩に内紛が起こりました。
この内紛で脱藩して浪士となった水戸藩士17名と、薩摩藩士1名の18名が桜田門外の変を起こしたのでした。

坂下門

坂下門は西の丸の北側入口にあたる門です。

明治になってから西の丸に皇居が移ると、重要な入口のひとつとなりました。
現在も宮内庁の通用門として利用されています。そのため警備は厳重です。

正月や天皇誕生日の一般参賀の際の出口のひとつとして指定されており、
一般人はこの時のみ、坂下門を通れます。

ここ坂下門は、文久2年(1862年)「坂下門外の変」の現場となった場所です。
「坂下門外の変」

文久2年1月15日(1862年2月13日)老中・安藤信正がこの坂下門外で水戸浪士に襲われました。

桜田門外の変で井伊直弼(いいなおすけ)が暗殺された後、開国路線を継承した安藤信正は、
朝廷から幕府に和宮(かずのみや)を嫁がせる公武合体を推進しました。

これに反発した尊王攘夷派の水戸浪士らは、1月15日に安藤信正暗殺を計画しました。
安藤信正はこの門外で水戸浪士に襲われ、負傷しました。
一方、水戸浪士は全員その場で返り討ちにあって殺されました。

安藤信正は一命をとりとめましたが、幕府の権威は失墜してしまい、老中を罷免されています。

まとめ

ねこ
ねこ
歴史がいっぱい感じられるね
皇居前広場から見える夜景は大都会です。

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